事後アップ。
たしか?午前中はパソコン塾は参加者なし。
午後は2時頃から待機で通常塾。
中学生は大体は中間考査直前モード。
一部は英検モード。
きょうは何の日モードの9月11日。
小学生も中学生ももうリアルな感覚がないのは無理もないのかも。
今やもう311も911も全く何も知識もないし言葉として「同時多発テロ」とか出てきてもそこまででフラットで真っ白なところに点がちょっと打たれてる程度のことのようだ。歴史的な事件を同時代に、あるいは過ぎたものとして学ぶにしても、擬似的ながらも「同時代性」というのはぼんやりと「時代の空気」だとか「周辺の事柄」とかを連想して考えたりして何かしら輪郭はつかめるものなのだと思うのだが、そういうことの大前提に読書体験とか映画体験とかその種類の疑似体験的なものが重要なのだろう。自分が学生だった頃とか、更に遡って小中学生の頃の何かそういう体験はどうだったんだろうか?たとえば「戦争」とかのことって決して学校の教科書とかの中でとか授業の中でとかそういうものに契機があったのではなかった気がする。漫画だとかアニメだとかなどを含めての読書体験だとか映画体験が重要な位置にあった。そして人伝で聞き及んだ話がきっとベースには確実にあった。親の世代は戦争体験を語っていたし、それはとっても個人的な体験にのっかった「地べたの歴史」だった。決して抽象化しても読み物とかのお話になってるものでもなくって生々しい何か個個の体験そのものが言語していたんだと今になって感じる。そういう生々しい個々の体験を聞いていたベースがあって、それが前提となって後に本を読んだり学校で歴史を学んだり映画を見たりするようになって、幾つもの思い当たる節をつぶしてぶつかって自分自身の疑似体験が結実して歴史と接続した自分に引き寄せた「記憶」になってる。どうして自分は「戦争」とかその他の幾つかのできごとについて話そうとしたりするのかというアイデンティティの問題にゆきつく。塾で教えてるからという理由だけではないようだ。なぜなんだろう?どうしてなんだろう?311だとか911だとかオウム事件だとか阪神大震災だとか・・・時代としては通過して見てきたものについて語る自分。自分が直接は知らないはずの直接は生きてない時代のことを、たとえば、第二次世界大戦だとか戦後史の断片のことを語ってる自分。なんか違うんだろうか?歴史を背負うとか時代の精神を語る的なこととか生きてきた時代と語ることってどういうことなんだ?自問自答。とっちらかった。
とりとめない。
二〇〇一年の9月11日は何をやっていたのか?今度調べてみよう。
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